LOGIN(俺は納得いかない) 授業を受けている間、俺は悶々としていた。原因はもちろん、今朝の静森のことである。 井伊サンの味方が増えることを否定しているわけじゃない。むしろいいことだ。 だが、いくら何でも特別扱いしすぎじゃないか? 静森の境遇なんて、言っては悪いがよくあることじゃないか。勢いのある部に押され、伝統を守ることに固執して対抗しきれず、交渉も上手くいかず、廃部の危機に陥った。 よくあることだ。 確かに、井伊サンが肩入れしたくなる人物像なのは、頭ではわかる。真面目で純粋、それなりにスキルもありそうだ。 だが、静森の境遇を特別視する理由にはならないんじゃないか。 ましてや、俺の意見を差し置いて、わざわざ静森専用の試験を課すなんて。 何だよ、井伊サンのスキャンダルを暴くって。んで何だよ、井伊サンのいいところを探して、その中で駄目なところがあったら報告するって。 井伊サンは現実主義者だ。最近は特にそう。 その井伊サンが、自分自身をネタにするなんて不合理だ。しかも、静森が日和った妥協案を提示したら、あっさりとそれを受け入れた。 俺にはそんなの言ったことないくせに。 いったい何を考えているのか……。 いや、井伊サンの考えていることは常に一貫している。 真面目に生きる者が損をする、そんな理不尽な世の中を変える。 井伊サンはそのために生きている。 静森のことだって、桜庭校長のことだって、その信念に沿っての行動だろう。 もしかして、井伊サンは静森と校長が似ていると思ったのか? だからあんなに肩入れするのか? 桜庭校長、姉貴、それからクソムカつくあの男、一条怜央。彼らが井伊サンにとって特別な人間なのは、まだいい。彼らは大人だから。 だが、高校生ってくくりでは、俺が唯一無二の存在じゃないのか。 ……何でここまでイラつくのか、実のところ自分でもわかっている。 悔しいのだ。 俺という特別な人間がいながら、井伊サンが他の奴に興味を持ったことが、しかもそれが同世代の女子だったことが、どうしようもなく悔しいのだ。理屈じゃなく、感情で。 静森が仮に男だったら、電車内でつかみかかっていたかもしれない。 そんなガキくささが自分で理解できるからこそ、苛
朝の通勤・通学ラッシュの時間帯、外の湿気が電車内にもかすかに入り込んでいる。 静森さんの首筋にうっすらと汗が滲んでいるのは、暑さだけが理由ではないだろう。 私から課題を突きつけられた彼女は、大いに戸惑っていた。 「な、何で井伊さん自身を……」 「嫌ですか」 「嫌というか、完全に予想外だったというか。そ、そもそも、こんな人がたくさんいる場所で、スキャンダルを調べろなんて大胆すぎる発言ですよ」 「見て」 視線を右に向ける。 龍慈君の姿に沸き立った女子生徒数人が、浮かれた声で盛り上がっていた。他の一般客は、彼女たちのよく通る笑い声に眉をひそめている。 「不快なものほど意識が向く。堂々としていれば、私たちの会話を気にする人はいませんよ。ましてや、一言一句記憶している人は皆無でしょう。静森先輩は違うかもしれませんが」 くすりと笑う。 私は再び、彼女の耳元に口を寄せた。 「新聞部の伝統、そしてあなたを閉め出したネットメディア部と、同じ事をする必要はないですよ」 「え?」 「むしろあなたには、彼らと違うところを見せてほしいのです。どんな状況であっても、どんな課題があっても、他人を蹴落とすなんて安易な真似に走らず、信念を貫き、真偽を追う姿を」 真面目に生きる者が損をする。その悔しさを知っている彼女だからこそ、理不尽な状況を乗り越えてほしい。乗り越える強さを身につけてほしい。 すると、静森さんは私をまっすぐに見た。いい目だと思った。 「スキャンダル収集、やっぱり私は抵抗があります」 (真面目な彼女なら、そう言うでしょうね。まあ、仕方ないでしょう) 私は内心で肩をすくめた。さすがに、いきなりは酷だったようだ。 まだ、彼女を巻き込むのは早いということか。 「そうよね。ごめんなさい、この話は忘れて――」 「でも!」 しかし、静森さんは意を決して言う。 「代わりに私、井伊さんのいいところを探して、その中で駄目なところがあったら報告します。それで、どうでしょうか!?」 ――甘い妥協案だと思った。 しかし、私は興味を持った。彼女の提案そのものより、彼女の姿勢に。 正直言うと、静森さんはこちらが押せば簡単に折れると思っていた。真面目な反面
「からかうのはやめていただけますか? 静森先輩」 乱れた髪をさりげなく整えながら、私は言った。少しだけ身体を傾け、警戒していることを示す。 すると、静森さんは握り拳を作って力説した。 「からかってなんていません。私、本当にすごいと思っているんです。26歳になって、もう一度高校で学び直そうなんて、並大抵の覚悟じゃできませんよ!」 静森さんが私の実年齢を知っているのは本当だった。 私はむしろ、彼女の言葉で警戒心を緩めた。 (もしかしたら、入学式の痴漢騒ぎも仕込みかと思ったけれど……どうやら思い違いのようね。怜央なら、こんなあっさり情報開示するような子をスパイにしたてようとは思わないもの) 彼は優秀だ。人の優劣を見抜く目を持っている。そして、とても冷酷だ。 スパイを丁寧に育てるなんて発想はない。 ましてや、口の軽い人間の起用などもってのほかだ。 静森さんの話は止まらない。 「普通と違う人生を堂々と歩む、その姿に憧れます。確かに学年では私の方が上級生ですが、井伊さんにため口で話すなんてできませんよ。私、痴漢から助けていただいた時から、井伊さんのファンなんです! だから、久我先輩も同じ井伊さんのファンなんだと思って、それで『同志!』と」 「まあ、それならわかる」 なぜか龍慈君がしみじみとうなずいた。 「だがな、静森。俺としては、井伊サンを守ると決めた以上、下手な人間を味方に引き入れるわけにはいかないんだ。俺たちはお前のことを知らなすぎる」 「龍慈君、あまり彼女に強く当たるものではないわ。ただ、私や龍慈君が彼女のことをよく知らないというのは、その通りね」 私は静森さんに向き直った。 「先輩。あなたのことを教えていただけますか。次の電車が来るまで、もう少し時間がありますから。まず、どうやって私の年齢を知ったのですか?」 「新聞部として、パソコンが苦手な顧問の先生に頼まれてメール整理をしているときです。偶然、イントラネットに井伊さんの扱いについて注意喚起するメールが届いたのを見てしまったんです」 「おいおい。生徒にメール整理って、セキュリティがガバガバじゃねえか。大丈夫なのか、その先生」 「あはは……ですよね。すぐに閉じたんですが、私、記憶力には自信があって。井伊さんの情報が頭に
――怜央の講演翌日。 この日の私は、朝から体調が芳しくなかった。 ベッドから身体を起こしたときから、嫌な予感がしていたのだ。「空が真っ黒。今日は雨かしら」 窓から空を見上げて、つぶやく。 昨日の天気予報では、降水確率は10パーセントだった。 春先の天気は変わりやすいという。今日がそういう日なのだろう。「どうせなら、朝から雨が降ってくれたほうが踏ん切りがついていいのだけれど」 私には、こういう曇天が雨よりも苦手な理由があった。 途端、ずきりと膝が痛んで、私はサポーターの上から膝をさすった。 真っ黒い雲、薄暗い視界、まとわりつくような重い空気。こういう日は、古傷が痛むのだ。 古傷――怜央に婚約破棄され、階段から突き落とされたときに負った傷だ。 あの日も、今日同様、重苦しい空模様だった。 身体が、当時を覚えているのだろう。 こういう日は、生理のとき以上に精神的に参る。 それでも、ここ数年は何とかやり過ごしてきたのだが。「昨日、色々あったせいかな。いつもより身体が重い」 だからといって引きこもるわけにはいかない。まだ新生活は始まったばかりなのだ。 せっかくクラスで注目を集める存在になったのだから、ここで下手に評判を落とすわけにはいかない。 体調が悪い中でどう動くか。そのスキルを身につけられたのは、ブラック企業で働いて得た数少ない成果だと思う。 幸い、熱はない。 ベースメイクをいつもより念入りにし、朝食も気持ち鉄分多めに摂って、私は自宅マンションを出た。 駅へと向かうと、入口で龍慈君が待っていた。珍しいこともあるものだ。彼は普段、自転車通学である。 私と顔を合わせると、彼は一瞬だけためらった後、私に声をかけてきた。「はよ、井伊サン」「おはよう、龍慈君。今日は嫌な天気ね。雨が降りそう」「井伊サン、昔からこういう日は苦手だったよな。今日もヤバい感じ?」「まあ、正直……ね」 私は力なく笑った。「龍慈君がいるなんて珍しいわね。今日は電車通学なんだ」「まあ、うん。井伊サンに早めに会っといたほうがいいと思って」「昨日のこと?」 ずばり聞くと、龍慈君は顎先を指でかいた。「昨日は、ごめん。俺、ちょっと先走ったかも」「そう」「いや、別に井伊サンに何かしようって思ったわけじゃないんだ。ただ、心配になってさ。一条怜央とのこと
龍慈君の目が、強く何かを訴えかけている。 少年ではなく、男性の息づかいを感じる。 私はきゅっと唇を噛みしめた。 駄目。 それは駄目よ、龍慈君。 あなたは、私にとって弟なの。 近づいてくる龍慈君の顔。男の子にしてはびっくりするほど睫が綺麗。肌もどうしてこんなにきめ細かいのか。 力強いのに肉感的な唇が迫ってくる。 あと10センチ。 私は右手の人差し指を、龍慈君の唇に当てた。久しく感じていなかったぞくりとした震えを、胸の奥に押し込める。 龍慈君が泣きそうな顔になった。「井伊サン、俺……」「私は、もう恋愛はしないと決めてるの」 私の言葉に、龍慈君が目を大きく見開く。 ごめんなさいと、心の中で私はつぶやく。 口からは、大人としての真面目で、だけどズルい言葉が零れ出た。「私の存在は、龍慈君を幸せにしないと思ってる。だから私は、あなたの幸せを願うだけだわ」 微笑んだ。微笑んだつもりだった。 けど、自分で何となくわかる。今の私は、ひどく空虚な表情をしていると。 ――フラッシュバックだ。 いつかのベッド。 いつかのデート。 いつかの、婚約破棄。 ずきりと、古傷の膝が痛んだ。「忘れるな」と私の頑なな心が警告しているようだった。 龍慈君は目を閉じた。そして、ゆっくりと私から離れた。 指先から、龍慈君の温かな唇の感触が遠のいていく。その熱は、まるで神聖不可侵なものに触れてしまった痛みのように感じられた。 人差し指と親指を、ゆっくりとこする。また、背筋がぞくりとする感覚が来た。 龍慈君が踵を返す。「井伊サンを守るのは、俺だから」 そう言い残し、龍慈君は立ち去っていった。 誰も居なくなった廊下の壁に、私は後頭部をごちんとつけた。長い息を、天井に向けて吐いた。「私はもう、誰かに守ってもらうような女じゃないのよ、龍慈君……」◆◆◆「はぁ……。あの表情はズルいよ、井伊サン。俺、何も言えなくなるじゃんか」 かなり歩いてから、俺は片腕で顔を覆った。こんな情けない顔を、井伊サンに見せるわけにはいかない。 男のプライドが許さない。 だが、そんなプライドなんて、井伊サンの前ではちっぽけな感情なんだと思い知らされた。「ミスった。あの場であんなことするんじゃなかった。後で井伊サンに、どんな顔して会えばいいんだ」 鞄を取りに、教室へ向か
怜央の講演会が終了した。私の質問がよほど衝撃的だったのか、教頭先生は質問を打ち切ったのだ。 怜央とは、それから視線が合うことはなかった。話をする機会もなかった。 その代わり、講堂を出るまでの間ずっと、綺羅良が私を睨んできていた。私は講堂出口で振り返り、綺羅良に向けてカーテシーをした。それを見て顔を赤くした綺羅良は、少し見ものだった。 教室への帰り道。私はクラスメイトの女子に囲まれた。「井伊さん、すごいね! 最後のあのお辞儀って、カーテシー?っていうんだっけ。ガチ綺麗だった」「一条先生相手に堂々としてたよねー。私、見ていてドキドキしたもん」「ありがとう。盛り上がってよかったわ」「それで? それで!? 井伊さんの好きな人って誰!?」「同じクラス? それとも年上? まさかの他校生とか!?」「ふふ。それは秘密」「えー」「やば、今の仕草、すごい大人っぽかった」「ねー。井伊さんって、先生よりも先生っぽいよねー」(まあ、少なくとも伊集院先生よりは年上だものね)「クラスメイトとしてこれから1年、一緒に頑張りましょう。何かあったら、手伝ってね?」「やっぱり先生っぽい……」「はい! 井伊先生!」「よろしい」 クラスメイトたちと笑い合う。 こちらを遠巻きに見ている男子生徒に気がついた。私は微笑みかけた。色めき立つ男子生徒たちに、すかさずクラスメイトが釘を刺した。「あんたたち、井伊さんに近づくんじゃないわよ」「そーだそーだ。井伊センセに色目使うなー。キモいぞー」「そんなんじゃねえよ!」 私は、年下のクラスメイトたちのやり取りを微笑ましく眺めていた。 10年前とは違う形だけれど、こうして青春の中に身を置けることは、ありがたいと思った。「あら?」 そのとき、前方に背の高い男子生徒が現れた。 龍慈君だ。 どういうわけか、機嫌が悪そうだ。 龍慈君の名前は、すでに私のクラスでもイケメン上級生として知れ渡っている。周囲の女子生徒たちが「見て、久我先輩だよ!」と沸き立った。 なるほど、龍慈君はいつもこんな視線に晒されているわけか。 確かに、毎日この調子では、うんざりして無愛想になるのもわかる。 でも、どうして彼はここにいるのだろう。講演会は1年生だけのイベントなのに。龍慈君は3年生だ。そろそろ受験勉強を始めていてもおかしくない。「こん







